正午過ぎ。
洞源院さまへと向かいます。
高台にあるお寺は、一時期200人以上の方々の避難所になっていたとのこと。
お檀家さん、お檀家さん以外の方、
両者の区別なく、自治をつくって避難所生活を送られています。
まずは、ご住職さまに、現状をお話いただきました。
自治体からの支援はほとんどなく、
支援の内訳は、NPOが2~3割、他のお寺から7割。
ほぼお寺のネットワークに頼っている状況です。
「洞源院は比較的恵まれているって言われるけど、
生野菜と肉類はないし、食べちゃえば、また必要になる。
恵まれてるから支援をやめる、こういうことになってしまうと…」
ご住職さまの切実な言葉が、飛び込んできます。
また、ある男性の方は、笑いながら、
「水が出ないのに、地震直後に即席めんを送られてきても、ねぇ」
おっしゃる通りです。
自分も、地震直後に即席めんやそうめんを、必死に集めていました。
「支援」は適切かつ継続的に行われないと、「支援」にならない。
ごく当たり前のことなのですが、その難しさ。
さて、14時半頃。
チョコレート・フォンデュと、夕飯の炊き出しの準備です。
夕飯のメニューは、
・ビーフストロガノフ(ワインで煮込む本格派、ライス&バターライスの2色ご飯で)
・コンソメスープ(新鮮パセリのみじん切り入り)
・野菜サラダ(レタス、ブロッコリー、プチトマト)
・メロン
なんとも豪華!
お寺の炊事場をお借りして、材料を刻む、刻む、刻む…。
なかなか終りません。
同時並行で、本堂にて大道芸のパフォーマンスとお歌のコンサートも始まります。
私は記録係として、本堂に足を運びます。
歌の一つにあった「浜辺の歌」。
「あした浜辺をさまよえば/昔のことぞ忍ばるる」
「寄する波よ/かえす波よ」
避難所の方々の、歌詞を口ずさむ声、涙を拭う手、鼻をすする音・・・
3月11日。
津波は、どれほどのものを呑み込んでいったのでしょうか。
大切な人も、家も、かけがえのない思い出も。
ビデオをまわしながら、自分も頭を少しタイムスリップさせていました。
…とそこへ、炊事場から「手伝ってください」との声が。
慌てて炊事場に向かいます。
時計は17時過ぎ。
いつもは避難所の方々、ご夕食を召し上がっている時間です。
食事の提供時間が大幅に遅れてしまうと、
お風呂に行く時間が決まっているので、
みなさんの、その後の生活リズムが狂ってしまうことになります。
焦りながら、野菜サラダを盛り付けていると、
「お手伝いしましょうか?」
お母さんたちが、みかねてお声をかけて下さいました。
普段お忙しいお母さんたちに少しでもくつろいでいただけたら、
と、夕食の炊き出しを行ったのですが…
結局お手伝いいただいたこと、
本当に申し訳なく、また大変ありがたく感じています。
普段より1時間ほど遅れての夕飯になってしまいました。
反省です。
また、たくさん食べていただきたいとの思いから、
食事を均一の量で盛りすぎたことも、大いに反省です。
お母さんたちから、「こどもたちも同じ量!?」と驚かれました。
18時過ぎ。
後片付けをしていると、お母さんからの情報で、
炊き出しで使用する、使い捨ての紙皿、紙コップ、紙お椀、
が不足しているとのこと。
余った材料とともに、余った紙食器類も、ご寄付させていただきました。
19時頃。
なんと!
別れ際、みなさま外にいらしていただき、
お歌を歌って、お別れのご挨拶をしてくださいました。
しばらく車のなかで、ジーンとなりながら、夜の高速を車は走ります。
2日間、異なる避難所にうかがわせていただき、
ハプニング・反省点、本当に細かいことを言えばキリがありません。
何度も言われていることですが、避難所ごとのニーズの多様性。
適切に、かつ継続的に必要な「支援」をさせていただくためにも、
ご縁づくりの尊さを感じさせられました。
そして、改めて自分に問いかけた「支援者」「非支援者」の関係性。
そこには上も下も、両者を隔てる壁もあってはならないということ。
「支援」させていただくうちに、こちらが学びの「支援」をいただく。
これは、ふだんのひとさじの会の活動にて、
会のメンバーが常々感じていることでもあります。
今後とも、被災地、被災された方々とのご縁を切らさず、
お手伝いさせていただければと思います。