今回の投稿はフリーアナウンサーの藪本雅子さんがお書き下さいました。ご本人のブログから転載させていただきます。
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新年の初投稿!!
ちょっと出遅れましたが、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
年末年始は家族とどっぷり、まったり、ちんまり、
お墓参りにいって、帝釈天にお参りにいって、
食べて、飲んで、ランニングして、そんなこんなでしたー。
そして、始業式の前夜、行ってきたのはここです!【写真1】
夜のスカイツリー、きれいでしょう~~~!
じゃなくて、
路上生活している人の支援をしている「ひとさじの会」、の活動に初参加したのであります。
これを主催する浄土宗の僧侶、吉水岳彦さんに先月、インタビューして以来、ずっと気にかかっていたのでした。
なんというかー、
あちこちで人権講演によばれて、話をしたりなんかしているくせに、
長年、目にしてきたはずの路上生活者のことにあえて目を向けなかったことにひどく後ろめたさを感じ、痛いところ突かれた気持ちになり、
とても複雑な・・・なんと言おうかー。
だって、彼らは生活保護受けようと思ったら受けられるのに、
あえて、外にいるんでしょう?
だって、公園にテント貼られたら、子供を遊ばせるのちょっと嫌になっちゃうもの。
だって、すごく、臭うんだもの。
だって、お酒臭かったり、なんか怖いわ。
そんな気持ちが強くて、近寄らなかったのだ。
でも、好きでやっているわけじゃない、
それぞれに背景があって、追い詰められてそうなっていった、
中には知的、精神障害者、ボーダーの人も含まれていて、
自分で生活保護を申請できない人もいる、
救急車で運ばれる事態になっても、受け入れてくれる病院もなかなかない、
特に近年、スカイツリーやヒカリエなど再開発が進むのに合わせて、
閉め出しが激化している、
出て行けと追われたおじさんが、水死体で発見されたり、
「この国に生存権っていう言葉はあるんですか」
という吉水さんの切なる声に、激しく動揺してしまったのです。
ああだこうだ言い訳考えている場合じゃない。
とにかく、行こう、ってことで行ってきたのです。
吉水岳彦さんです。がくげん、と読みます。【写真2】
なんと頭顔艶いいんでしょうか。
1個1合分くらいはある、大きなおにぎりを岳彦さんのお寺で作って、
山谷、隅田川沿い、浅草など3コースに分かれて、配って歩きます。
風邪薬やマスク、カイロ、あかぎれ用に軟膏、
熱いお茶も持っていきます。
最初のおじさん、10年ぐらい浅草の住人。
屋根のあるビルで寝ていたらしいのだが、酒を飲んだ仲間が喧嘩して、
それ以来、閉め出されビルの外。おじさんは、お酒は飲まない。
風邪ひいてるらしく、薬が欲しいと。
飴玉を渡すととても喜んでいた。
なんだか、拍子抜けするほど、普通に話してくれるので、
思わず、「なんで生活保護うけてアパート入らないんですか?」と聞いた。
すると途端に口調が強くなり、「そんなこと、できるわけないだろ」と言って、
ダンボールに潜ってしまった。
何故、できないんだろう・・・それ以上は聞けなかった。
ダンボールの中で、DSでゴルフに興じている人もいた。
「私は持ってないわ」と言うと、
「これくらい、今じゃ当たり前よ」なんて返される。
「次はいつ?またねー」と明るい。
ホームレスなのかどうか、見た目では全くわからない人もたくさんいる。
ボストンバックもそれ程大きくないし、こざっぱりしているし、
靴もまあまあ綺麗。おにぎりどうぞ、というのはためらわれる。
でも、岳彦さんが声をかけると、そうだった。
カイロや飴ももらって、ありがとう、と去っていく。
つけまつげばっちりの派手なメークをした茶髪の女性もいた。
わからない。
避難できるシェルターがあると思うのだが、
ダンボールに寝るという選択。
いろんな事情を抱えているのだろう。
家族に連絡されると困るという人、
裏社会を生きてきて、もらえるはずがないと思っている人、
公的なものの世話になんかなりたくない、
一人で生きていくんだというプライドがある人――
生活保護を受けたいのだが、どうしたらいいか、と訴えてきたおじさんも。
その人は、脳梗塞をやって、言葉がうまく出ないようす。
翌日、改めて会って対処することになった。
「路上生活者」と一括りにはできない。
一時的に路上生活の状態になっている人、
そういう人は、早いうちに、少し手助けをすることで
屋根のあるアパートで生活できるだろう。
いろんな人がいるけれど、自己責任だとは決して言えない、
誰かが助けなきゃいけない人がたくさんいるってことだ。
おにぎりを配って歩くことで、問題が解決するのだろうか。
これに対して、岳彦さんは、言った。
「目の前につらいって言っている人がいるのに、
全員にできないからやりません、っていうのは違うと思う」
その通りだ。
それが宗教者の原点のような気がした。
昔は、「かけこみ寺」というのがあったらしいが、
とんと、聞いたことはない。どこへ行ってしまったんだろうか。
食べるものに困り、仕事に困り、住むところに困ったら、
お寺だったんじゃないのかな?
神社仏閣が行き場のない人を保護していた歴史は長いと思うのだが、
昭和14年の宗教法人法の改正で、お寺が分断され、
中小企業化してしまったことから、余裕がなくなったことに一因があるという。
キリスト教は、トップダウンでお金がバンとおりてきて、
必要な救済や布教にあてられるのだが、日本の仏教はそれがない。
自分のお寺は自分のお寺だけで維持、管理しなきゃいけないから、
檀家さんの顔色見て(失礼!)、合理化策で、セレモニーホールが流行ったりして。
宗教者たるもの、金勘定なんてしないで、人の道を説くために
専心してもらいたいものだが、なかなかできない環境に追い込まれているってことか。
浄土宗からはじまった「ひとさじの会」だが、
若いお坊さんが宗派を越えて参加している。
今は小さな輪かもしれないけれど、こういう活動が広がればいいなと
心から思う。そして、行政を突き動かしていけばいい。
誰かが動かないと、何もはじまらない。
参加させてもらってよかった。
初心に戻った。
見て見ぬふり、やめよう。
臭いものに蓋、やめよう。
とにかく、一歩、踏み出して考えることができたのがよかった。
ありがとう。
合掌
追記:こんな本を最近読みました。
キリスト教の牧師さんで、養護教員をされていた方が書いた本。
自分の教会で路上生活者を保護する活動をしている。
個々の事例とともに、行政の施策、データもあって、どうなっているのかわかりやすかった。
『ホームレス障害者: 彼らを路上に追いやるもの』(日本評論社)